家族

 

平井朋希のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。

家族みんなで過ごす時間は、いつも笑いっぱなし。ムードメーカーの朋希がいてくれることで、私たちは宝物のような日々を過ごせています。


母 よしえ

朋希は生後3ヶ月経ってやっとダウン症と診断されました。

長女9歳長男6歳、私35歳で産んだ3人目です。それでもどうやって育てていいのか分かりませんでした。夫と話していて「ダウン症ならダウン症、トモキはトモキ。うちに来た子や。」という言葉で目が覚めました。

「ゆっくりだけど必ず成長していきます」と言われた医師の言葉。

そう!これを楽しめばいいんだと思いました。トモキを育てる事で「待つこと」を学びました。マイペースとはこの子達の為にある言葉か?と思いました。

小中学は地域の中で育ちました。その中で学校の友達やママ友がたくさん出来ました。

高校からは支援学校に通い卒業後は今のB型作業所に通っています。

こんな簡単には表せない子ども時代。生活面ではいろいろありましたが…。

4歳頃から私が自宅でアトリエを始め、「こどもアトリエ」と「アトリエ空の色」の両輪でスタート。

「こどもアトリエ」は療育のアートセラピー。

「アトリエ空の色」は学校が終わった後、作る事が好きな普通の子達が集まって、好きな事ができる空間として。

こんな環境で育った朋希は、絵の具・クレパス・和紙・折り紙・粘土・染め・織り…何でも有り!です。好きな素材で好きなようにペタペタやって褒めて褒めて…もっともっとと褒めまくり。で、自信を付けて今に至るとなっています。

そしてまだまだゆっくりゆっくり成長中です。明日はもっと違う事ができるのかもしれない。そんな可能性はどの子も同じ。一緒に「子育て親育ち」を楽しみましょう。

父 せいじ

朋希は1994年7月にダウン症を持って我が家にやって来ました。そうあのメジャーリーガーの大谷翔平さんと同い年です。

朋希が産まれたばかりの頃は本当に小さくて、身体もフニャフニャで、泣きもしないし、笑いもしない、ミルクも飲まない。二週間に一度は高熱を出し、いつまで生きてくれるのか正直不安でたまりませんでした。

足首の靭帯が弱く3歳になっても装具が無いと歩けない。言葉も出て来ない。白内障で目も良く見えない。親としてどうやって育てて行ったら良いのか…まるで暗闇の中を彷徨い歩いている様な先が見えない状態で、夫婦で本当に悩みました。

そんな中、保健婦さんを初め、保育所や学校の先生。地元地域の皆様の支えも有り、何とかここまで育ってくれました。

私が60歳で会社を引退したあと、親子三人で何か一緒に出来ることはないかと色々考えました。そして出した答えは音楽でした。私達夫婦は京都の芸術系大学出身で洋画を専攻していましたので、朋希が小さい頃から絵を描く楽しさを教えたりはしていました。私達夫婦は同じ大学の中で同じ軽音楽サークルの同じバンドメンバーでもあったので、大学時代を思い出しもう一度朋希と一緒に音楽に触れてみようと思い立ち、朋希にはパーカッションを担当させて、親子三人でのバンド、朋の音「TOMO’N」を結成しました。

朋希は1曲覚えるには人の10倍、20倍の練習が必要です。最初は嫌がってなかなか上手く出来ませんでした。出来ないことに腹を立て固まってしまうことも度々ありました。ところが1曲、2曲と出来る楽曲が増えて行くうちに、夢中で練習する様になり、今ではパーカッション担当として立派にバンドを支えてくれています。

下手くそでもいい、調子外れでもいい。音楽を通して朋希の笑顔と歌声と奏でる音を皆様に感じて頂きたい。そして現在障がい児をお育てのパパさんママさんに今の朋希の姿を見て頂き、少しでも勇気や希望を持って頂けたら、そして障がい児を育てることは決して不幸では無いんだよと伝えて行きたい。それが今の私達親子に出来る精一杯のことだと、そんな思いで活動しています。

暗闇の中を彷徨い歩いていた頃が嘘の様に、今は毎日がとっても充実していて、楽しく幸せなんです。


これが私たちの家族の簡単な紹介です。家族それぞれの個性が重なり合い、賑やかで楽しい毎日を過ごしています。これからも私たち家族の出来事やエピソードを、ホームページを通してお伝えしていきますので、どうぞよろしくお願いします!

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